宗谷本線はどうなるのか その1

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旭川駅にて、左から「大雪3号」「ライラック25号」「サロベツ4号」「ライラック36号」。これは2019年の撮影で、コロナ減便の現在はこの光景を見られる日は限られる。

廃線跡ではなく現役の宗谷本線について、素人考えをしてみる。鉄道も「道」には違いない。

宗谷本線は旭川から稚内を259.4㎞かけて結ぶ、日本最北の鉄道路線である。2021年3月12日までは起点・旭川駅を含めて53駅、翌日からは13駅を一気に廃止し41駅になった。民営化時点では深名線名寄本線天北線といった接続路線を持っていたが、現在では旭川駅函館本線富良野線と接続し、二つ隣の新旭川駅で石北本線と別れた後は単独で255.7㎞を辿る。定義にもよるが、日本最長の盲腸線である。経由する自治体は南から旭川市比布町和寒町剣淵町士別市名寄市美深町音威子府村、中川町、幌延町、豊富町稚内市の4市7町1村。

宗谷本線は大きく二つに性格が分けられる。旭川駅から名寄駅までの南区間と、名寄駅から稚内駅までの北区間である。南区間は76.2㎞(全体の約3割)、北区間は183.2㎞(全体の約7割)ある。どっちもやばいことには変わりないが、やばさの度合いはだいぶ異なるので分けて見ていく。

 

 

〈南区間

区間旭川市旭川駅から名寄市の名寄駅までの76.2㎞である。2021年3月13日以降、この区間には旭川駅と名寄駅を含めて16駅がある。同日のダイヤ改正で5駅が廃止された。廃止された駅を緑、現役の駅を青と赤でGoogle Earth上に表示してみる。

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蘭留駅と塩狩駅との間には塩狩峠があり、国道40号道央道とともに宗谷本線も峠越えをしている。この峠は全国3番目の長さの石狩川にそそぐ水系と、同4番目の天塩川にそそぐ水系の分水嶺であり、降ってきた雨にとってはどちらに行くかで河口が200㎞も変わる運命の分かれ道なのだが、道路も鉄道も標高300m以下で越えている。いずれもトンネルすら穿たない、とても低く緩い峠である。塩狩峠塩狩駅の名は、この峠が分ける石「狩」国と天「塩」国に由来する。

さて、この区間は1898年に旭川駅から永山駅までが開業したのを皮切りに、1903年までに全線が開通している。1997年からは道や旭川市名寄市JR北海道が出資する第三セクター「北海道高速鉄道開発株式会社」が、線路の改良や新型車両の保有を行い、特急の130㎞/h運行をしていた(現在は120㎞/h)。札幌名寄間を最速期は2時間13分(たぶん)、現在でも2時間25分で結んでいる。

運行本数を見てみるが、ここではコロナで減便されている影響を考慮しないことにし、2019年12月時点の本数をWiki風の表にしてみる(現在は、特急の一部が曜日運休になったほか、旭川~比布の一往復が削減されている)。f:id:t93108:20210512202253p:plain

言うまでもないが、片道当り「1日」当りの本数である。永山駅には特急以外は止まるので、そこまでは片道1日19本あるが、北進するほど本数も細っていく。塩狩峠を越えるのは特急を併せて15本である。

 さて、1日にこの本数でどの程度の損益が出ているのか。2019年のJR北海道の発表では、旭川から名寄の収入は6億3200万円、これに対して、列車の運行や駅の管理にかかる支出費用は計33億3000万円。つまり100円を稼ぐのに約527円を要している。悲しいかな大赤字だ。同発表でのこの区間の輸送密度は1393人/日。Wikiでは1500人/日が営業収支を均衡させる目安の数字とされているが、冬季除雪や異常なほどに需要のない駅といった要因を複数抱えている北海道の鉄道では、より大きな数字が必要だと言うことだろう。国鉄末期の特定地方交通線指定の目安は4000人/日だったが、それからすれば即刻廃止レベルである。

この需要のない駅の廃止が、現在の宗谷本線では手っ取り早く費用を節減できる方法である。駅を廃止すれば単純に維持管理費用が浮くし、その駅を通過できるようになることで列車の燃費も向上する(自動車と同じ理屈)。その観点から、JRは「過去5年、1日の平均利用者が3人以下」の駅を廃止若しくは自治体による維持管理に移行する方針を出している。廃止なら費用面・燃費面双方のメリットがあるし、自治体管理でもとりあえず費用面のメリットだけは受けられる。では、この条件に当てはまる駅はどれか。

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少し見辛いが、旭川方から南比布・北比布・蘭留・塩狩・東六線・北剣淵・下士別・瑞穂の8駅である。JR北海道としては、この8駅はほとんど用済みだと考えていると思われる。

さて、この8駅について先ほどの航空写真をもう一度見てみると、瑞穂駅以外については色が異なっている。このうち先述の通り5駅は廃止されたわけだが、赤で示した2駅は、2021年ダイヤ改正自治体管理に移行した。要するにJRからは戦力外通告を受けたわけだ。これを踏まえて、2つの写真を並べてみる。

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左は2021年5月現在の駅、右はそこから自治体管理駅を消したものである。JRとしてはできるだけ右の状態に近づけたいのだろう。旭川駅から名寄駅の76.2㎞で、現在は16駅あるから平均駅間距離は4.76㎞、それに対して自治体管理駅を全廃すると14駅になり、平均駅間距離は5.44㎞まで伸びる。また、こうみると比布駅と和寒駅の間が長いのがよくわかる。同区間は19.2㎞にもわたって必要な駅がないと判断されている。北見峠然り、狩勝峠然り、北海道の鉄道の峠越え区間はそんなものかも知れない。

しかし、峠越えがあるといっても一般道も高速道路も通っている。どちらも線形は非常に良く、峠であることを感じさせないほどである。マイカー社会で整備された道があるのだから、鉄道の利用が衰退するのもある種必定だろう。

それでもまだこの区間はいい方である。上川盆地北の比布駅までは区間列車も設定されている。それに、旭川と名寄は並行する路線バスでは2時間以上かかるが、宗谷本線なら普通電車で1時間半程度、特急なら50分台で行き来できる。バスも名寄始発は7時10分で旭川到着9時26分と通勤通学には使えないが、鉄道なら6時45分発8時15分着の便で悠々だろう。旭川・名寄の都市間に限れば、まだ需要を取り込む可能性はある。

もっとも、道都札幌との往来ではそうはいかない。残念ながら札幌・名寄の都市間では中央バス・道北バス運行の高速バス「なよろ号」に本数、料金、乗り換えで敗北しており、所要時間でしか勝負できていないのが現状である。もちろん旭川で「ライラック」や「カムイ」に乗り継げることを考慮すれば、快速なよろや普通列車も併せて本数では圧勝、時間も3時間程度で高速バスより30分は早いが、世の中乗り換えというのは嫌われ者らしい。

 想定外に長くなったので、北区間は回を改める。

 

つづき

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道道花畔札幌線(道道273号線) その1

1 十字街と斜め通り

札幌は典型的な条坊都市である。場所により軸の向きを変えながら広がる碁盤の目状の道路は、東西は江別から星置まで、南北は篠路から真駒内まで、およそ250平方kmにもおよぶ。これは、同じく日本の代表的条坊都市である京都市(岩倉~東山~中書島~嵐山)の約3倍の面積にあたる。

もっとも、これだけ広大な土地を、明治の開拓当初から市街化する予定であったわけではない。それどころか、戦前から札幌市であったのは現在の中央区や北区などのごく一部のみで、北25条以北や手稲区、西区、南区、清田区といった主要住宅街が札幌市に編入されたのは、昭和30年以降の事である。この裏付けともいえるのが、今回紹介する道道花畔札幌線である。

 

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この地図は、およそ十字の軸毎に色分けした札幌市北区・東区周辺である。一番左の青い部分ではJR函館本線を東西軸に、中央のオレンジの部分では大通公園創成川(国道5号)を、というように、色ごとに軸は異なるが、凡そ十字街が続くことが見て取れるだろう。黄色い道(道道)や赤い道(国道)も、その場での軸方向に認定されていることがわかる。

しかし、明らかに的外れというか”我が道を行く”道道があることに気が付くだろうか。それが、次の地図で赤線で示した道である。

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札幌駅のすぐ北東の赤丸から始まり、わずかに東進した後は殆ど軸を無視しながら北東方向に進んでいる。これが道道花畔札幌線、札幌の中でも指折りの古い道である。元村街道、斜め通りなど複数の愛称を持つが、この道が道道とされたのはその歴史の深さ故である。むしろ、この後見ていくとわかることだが、この道にそれ以外の重要性を付与することは難しい。

 

2 「石狩街道」

先に書いた通り、この道の歴史は古い。北海道開拓使明治4年に札幌に移転すると、当時メインの遠距離交通手段であった水運及び本州からの入り口になる函館へのアクセス道路として、札樽間の道路や札幌本道(函館ー森ー(海上)ー室蘭ー苫小牧ー千歳ー札幌)が明治6年までに開かれた。しかし、札幌にとって日本海側の港になる小樽へは、銭函ー朝里の断崖が険しく、容易に車道を成さなかった。そのため、日本海側から札幌への物資輸送は、市内に通じる河川を使った舟運に頼ることになった

ここで用いられた水路は、主に現在の創成川であった。創成川のうち北6条以南は、江戸末期に大友亀太郎という人物が、札幌川(現・豊平川)から水を引いた「大友堀」に由来する。大友は石狩川から伏籠川を遡り物資を輸送すべきと考えたため、大友堀は北6条で北東に折れ伏籠川に注いでいたが、これを明治3年に北に延伸し、北50条で琴似川に繋げ、この区間は寺尾堀と呼ばれた。これにより日本海から石狩川ー琴似川ー寺尾堀ー大友堀と経て札幌中心までが繋がった。

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ところが、この舟運には大きな弱点があった。現在では考えられないが、当時は石狩湾や石狩川水系は、冬季にしばしば凍結していたという。また、寺尾堀を掘削した折に残土で川沿いの道を造成したが、雨が降ると泥濘んで馬の腹が沈むほどであったという。

ここで登場するのが、元祖・石狩街道=現・道道花畔札幌線である。大友が大友堀を開鑿した際、伏籠川沿にも寺尾堀沿と同様に道を造成したらしい。明治3年以降、開拓者が元村、丘珠、花畔といった沿道に入植したのに伴って、この道を改修し利用する動きが出てきた。早山清太郎という人物が主に工事を請負い、明治6年に札幌ー篠路間を改修、翌年に篠路ー茨戸、花畔ー石狩原野(石狩港)、茨戸ー花畔を次々開削した。これにより、札幌から石狩までが陸路で繋がり、この道を「石狩街道」と称した。

この道はよく使われたようで、北海道内でも維持管理が特にされた路線になった。事実、明治25年末に馬車が通行できた道路は道内に10路線あったが、札幌室蘭間等の現在でも国道である路線に混じって、この「石狩街道」22.3kmがリストアップされている。

 

3 代替わり

明治19年、蛇行していた琴似川(北50条以北の現・創成川)を現在のように直線的に改修する工事がされ、北6条から茨戸までがほぼ直線で結ばれ、全体を創成川と称した。これに伴い川沿いの道も改修を受け、茨戸新道などと呼ばれた。明治20年函館新聞によると、今だメインとはならないものの、雪馬車が毎日20往復するほどの利用があったという。

さらに明治28年から、創成川の拡張とともに茨戸新道も全面改修された。大きく東側に迂回する「石狩街道」に比して、「茨戸新道」は茨戸までを最短距離で結ぶため、石狩方面への陸上交通はもっぱら「茨戸新道」が主役になった。いつしか、「石狩街道」は「元村街道」などと呼ばれるようになり、「茨戸新道」が新「石狩街道」となった。一般人の意識としては、茨戸新道の改修を契機として「石狩街道」の世代交代となったと思われる。

 

制度としても、「石狩街道」は代替わりを迎える。次の表は、明治16年1月17日の「札幌縣甲第二號布達」、道内の国道と県道(当時は函館・札幌・根室の三県時代)を定めたものである。

 

本縣管内道路等級左ノ通假定候條此旨布達候事  
     
国道三等    
從石狩國札幌郡札幌 至膽振国室蘭郡室蘭  
從膽振國勇払郡苫小牧 至十勝國十勝郡大津 大津は現在の豊頃町
     
縣道三等    
從石狩國札幌郡札幌 至後志國岩内郡岩内  
從同國岩内郡岩内 至後志國古宇郡古宇 古宇は現在の神恵内村・泊村
從同國余市郡余市 至同國積丹郡積丹  
從膽振國幌別郡鷲別 至同国虻田郡禮文華 禮文華は現在の豊浦町
從石狩國札幌郡札幌 至北見國枝幸郡枝幸  
從石狩國札幌郡札幌 至同國空知郡幌内 幌内は現在の三笠市
從同國石狩郡石狩 至同國樺戸郡志別  


ここで、「從石狩國札幌郡札幌 至北見國枝幸郡枝幸」(石狩国札幌郡札幌より北見国枝幸郡枝幸に至る路線)は、札幌より石狩、留萌、天塩、稚内を経由し枝幸に至る路線である。そして、このうち札幌から石狩の間では、旧「石狩街道」を指定していた。公式に「石狩街道」であったのである。

しかしこの12年後、明治28年3月23日の「北海道廳令第二十九號」では、以下のようにされた。

 

(前略)石狩國札幌ヨリ北見國枝幸二達スル路線中札幌石狩間左ノ通リ変更ス

(略)

札幌ヨリ枝幸二達スル假定縣道路線中札幌石狩間改正路線
 札幌ヨリ篠路村字茨戸太ヲ經テ石狩二至ル

 

ここで、旧「石狩街道」が経由していた札幌村が経由地にないことが、「石狩街道」の世代交代を表している。さらに、明治40年の「北海道廳告示第二百七十五號」では、新「石狩街道」が、仮定県道石狩札幌街道とされた。明治44年から翌年にかけて、札幌軌道がこの道沿いに馬車軌道を敷き、戦後は国道231号に指定されて(のちに北34条以南は国道5号に移管)、札幌から石狩湾・北方に向かう重要路線として現在まで続いている。

ここに旧「石狩街道」は、名実ともに石狩への連絡路「石狩街道」としての役割を終えた。明治初期の同じころに誕生した道は、国道5号や36号として現在でも道内の最重要路線である中、この道は「元村街道」として沿道集落の生活路となり、ひっそりと現在に至る。

 

ここまでから分かる通り、道道花畔札幌線の札幌の生命線としての役割は、大正時代を待たずして終わっていた。道道としての認定は、道路法7条1項6号「前各号に掲げるもののほか、地方開発のため特に必要な道路」に基づいているが、戦後の札幌市街地の急拡大に伴い、十字街を無視する変則道路として地図に残るのみになった。一部に重要な路線を構成する区間もあるが、全線を走る需要はないだろうし、その必要もない。全線を通じるのはその歴史的意義のみである。

 

4 道道花畔札幌線としてのデータ

道(道路法上の道路)にもランクがあり、雑に言えば国道→都道府県道→市道等の順である。道道では151号までが主要道道、201号からが一般道道とされ(152号から200号は欠番)、273号である花畔札幌線は一般道道である。

起点は石狩市花川北7条1丁目の道道44号交差点、終点は札幌市東区北7条東1丁目の国道5号交差点で、延長20.7kmである。道道認定時(1957年)の起点は札幌市北区茨戸であり、国道231号の経路変更に伴い起点が現在地に移転した(1984年)。早山清太郎が手掛けたうち、札幌ー篠路ー茨戸ー花畔の区間に相当する。花畔から先の区間は、道道44号線に指定されている。

起点の交差点には石狩市役所があり、約17km走った先の終点から100m程の位置にJR札幌駅がある。石狩札幌両市の中心を結ぶ路線であるのは、以上に見た成り立ちからも理解できよう。札幌市内では伏籠川左岸に、石狩市内では茨戸川(旧石狩川)左岸に沿っている。

古来からの道であるが、一部には現代に合わせて改良された区間もある。その新道区間も合わせ、道道花畔札幌線として指定されている総延長は20.7kmである。

最後に、全体の地図を確認しておく。

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赤線が石狩市内、オレンジ線が札幌市内、桃色線が新道である。沿道には丘珠空港やJR篠路駅がある。次回からは、この道を南側(終点側)から辿る。

 

(つづく)

国道5号余市札幌間 忍路トンネル旧道 その4

前回

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緑に覆われてはいるが、この辺りもそうとう切り立った斜面だ。

 

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落石覆いネットに落石受け、コンクリ吹付、ロックボルト(アンカー?違いが判らない)と、多様な防災工事が施されている。それだけ崩落しやすい斜面だと言うことだ。これだけの工事に金と時間をかけ、それでも安全とは判断されず新トンネルによる回避となったのだろう。安全が金で買えるならいいのかも知れない。

 

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これだけの工事でもなお危険度が高いと判断されたのだろう、この区間唯一の覆道が「忍路覆道」だ。もしかしたら雪崩を受け流す役目もあったのだろうか、海側に向かって傾斜している。

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看板に付けられたピクトグラムもわずかな傾斜をしっかり反映している。これは開発局の遊び心なのか、ただ現実に忠実なのか。

 

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潮風に晒され続けた宿命ではあるが、歩道の柵の錆がひどい。というよりなぜ覆道内だけ歩道があるのか。前後にはバス停にしかないのに。

 

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覆道内から忍路市街方面。人家がぽつぽつとあり、道路の施工の城白が目立つが、あとは一面緑。正面右の小さい山は、吹きあがったマグマが冷えてできたらしく、海側から吹きあがりの跡がわかるらしい。本当かよ。

 

 

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覆道から先は落石受けが続く。これだけ植物が根付いてもなお危険なのか。素人には分からない。

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余りに看板の色が鮮やかで、本当に廃道なのか疑いたくなる。交通量の少ない海沿いの道路と言えば、現役と言っても通じそうなほどに綺麗なままだ。ツーリングのバイクが追い越していっても驚かないような気もする。実際には、海から運ばれた砂や、タヌキの糞がそのまま残っていて、管理されていない道なのは明瞭なのだが。

 

この先の右カーブからは、桃内トンネルが真っ直ぐに見えるはずだ。ここにいても既に、廃道化工事のトラックの音が風に乗って聞こえてきている。残念ではあるが、今回はここまでと言うことになる。忍路・桃内トンネルの工事は来年3月末で終わるようなので、その後にまた訪れ、この先に行ってみることにする。

 

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安全が金で買えるならいいかもしれないと言ったが、この景色が見れなくなってしまうのはもったいないと思う。もちろん豊浜トンネル事故だったり飛騨川事故だったりの教訓が重要なのはわかるし、人命に代わる価値はないのだろうが、遊歩道程度でも残せたらと思わないでもない。

 

(一旦終わり)

国道5号余市札幌間 忍路トンネル旧道 その3

前回

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おそらく開閉可能なゲート。ということはまだこちらから入って作業する予定があるのかもしれない。

 

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下り一辺倒で一気に旧国道に至る。

奥の突き出た半島はオタモイ海岸で、あの先端にはかつて、戦後のごく短期間だけ運営された遊園地があったらしい。「千と千尋」の油屋(湯屋)は本州だったり台湾だったりの温泉街がモデルらしいが、この遊園地を調べると結構そっくりな建物が出てきたりするので、勝手にこっちがモデルではないかと疑ってみている。もっともこの遊園地は、火事でほとんど消失しているうえに、そこに至る遊歩道も崩落しかかっていて接近困難らしいが、そのうち行ってみたい。

 

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下りきって旧国道との交差点。フェンスできっちり塞がれているが、やはり開閉可能な箇所がある。大型ダンプには狭すぎる気もするが。

さて、旧忍路トンネルは余市側は埋められてしまっていたが、こちらは

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開いているじゃないか。「忍路トンネル」の銘板もそのままだ。これはうれしい誤算。それなりに奥まで入れるかもしれない。

 

 

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そんなわけがなかった。開発局が廃止トンネルを1年以上も放置するはずがない。よく見えないので下に内部の拡大写真。

 

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おやおや、上の方がまだ奥に続いているではありませんか。

この斜面、結構突き固められていて登りやすい。

 

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・・・あまり入りたいとは思えない。写真は見にくいが、30mほど奥にブルーシートと土嚢、その直後で完全に閉塞しているようだ。一応平日なので、奥に作業員がいる可能性も(ゼロだろうが)捨てきれず。まあ通り抜けができないことは確定なので。

 

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トンネル前には大型車の侵入跡が残っている。この日の10日ほど前、札幌は割と強い雨に打たれたのだが、この辺りもそうであったはず。だとすると、それ以降のごく最近までここで埋め戻し作業がされていたことになる。鉢合わせなくてよかった。

 

トンネルを背に、小樽方面。トンネル出口のこの、右カーブと交差点という要素も危険・廃止原因の一つだったのだろう。

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タイヤ痕が普通でない以外は、現役の道のようだ。標識も海辺とは思えないほどにきれいなまま残っている。

 

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少し進んで、旧「忍路」バス停跡。柵が一か所無くなっているが、その後ろは、

 

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海上8mの空中。まさか現役時代からこんな危険だったのかと思ったが、ここにはバス停の待合室があったらしい。

それにしてもこの土台が塩害で腐食し、パキッといってしまえば転落は免れない。知らぬが仏ってやつか。

 

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バス停跡からトンネル方向を見る。トンネルが見えないうちから謎の高さ制限。そして左急カーブ。現役時代には、現・塩谷トンネル前に負けず劣らずの量の警告看板で溢れていたのだろうか。そうでもなければここはかなり危険だと思う。

 

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バス停の端から桃内トンネル。あそこでは今も工事が進んでいることだろう。見つかってはかなわないので、適当なところで撤退する必要がある。

 

続く 

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国道5号余市札幌間 忍路トンネル旧道 その2

前回

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GoogleEarthから、現役時代の忍路トンネル(左)と、新トンネル切替後(右)。右の坂を上ったところに新トンネルがある。ここは今どうなっているかというと、

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埋まっている。

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もともとの位置を想定してみるとこんな感じだろうか。これでは入りようがないが、取り敢えず坑口までは行ってみる。

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隙間なくきっちり埋められている。開発局らしい丁寧な仕事ぶり。

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六文字分の四角いスペースがある。「忍路トンネル」だろうか。

上の写真からわかるが、この文字スペースはかなり左よりにある。とすると、坑門は新トンネルへの取り付け道工事によってかなり切り取られてしまったのだろう。

 

これ以上ここですることもないので、旧道に入れると目星をつけておいた場所へ移動。右下の地図の「市道忍路本通線」で忍路市街に出て、「市道忍路海岸線」で旧道にアクセスする。f:id:t93108:20200805204915p:plain

 

 

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市道忍路本通線から、旧道を偵察。こちら側にはダンプも警備員もいないようだ。海岸沿いに見ていくとトンネルが見えるが、あれが桃内トンネル。まだ埋め立て切ってはいないようだ。開発局の仕事が順調なら、来年にはあそこには黒い影ではなくコンクリの壁ができているはずだ。

 

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市道忍路海岸線の入口。工事してない今なら危なくないのでお邪魔する。

 

続く
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国道5号余市札幌間 忍路トンネル旧道 その1

前回

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地図

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GoogleEarthと開発局のHPより。2018(平成30)年3月に廃道になったばっかりの、(新)忍路トンネル対応区間である。ここには、忍路トンネルと桃内トンネルの2本があった。豊浜トンネル崩落事故を受けて見直されたトンネルの一つだろう。開発局の地図からもわかるように、多数箇所で何度も崩落等していたようだ。

ちなみに、開発局の近年のトンネル工事は「〇〇防災」と名付けられることが多い。前回までの新塩谷トンネルは「塩谷防災」、ここは「忍路防災」、国道229号で行われていた「積丹防災」、「島牧防災」なんかだ。

 

 

 

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トンネル手前にあった古い橋。奥の穴が新忍路トンネル。橋の長さより幅の方がありそう。

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桃内橋・1954(昭和29)年11月?竣工。旧国道の橋の可能性は高そう。

 

 

翻って旧道に入りたいところ

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立入禁止看板に警備員に大型ダンプと、全く入れる余地がない。これでは手も足も出ないので、反対側に回る。

それにしても、真ん中の赤い車、何の躊躇もなく旧道に入ろうとして警備員に止められてたけど何だったのか。

 

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実にのっぺりとした新忍路トンネル小樽側坑口。後ろを見ると、新塩谷トンネルと、そこにスムーズにつなげる道も工事中。新塩谷トンネルは見えないけど。

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余市側に抜けてきた。こちら側も飾り気はない。上に土が乗っているだけ向こう側よりマシか。

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続く

 

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国道5号余市札幌間 塩谷・笠岩トンネル旧道 その6

前回

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塩谷トンネルと笠岩トンネル、5号トンネルと6号トンネルの間まで戻ってきた。

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欄干が見えるが、小さな沢をここで跨いでいる。橋の名前はわからない。

この奥には6号トンネルがあるのだが、

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わずかに残された舗装が途切れた途端、この森だ。事前調査によると、6号トンネルは素掘りで、2001年の時点ですでに埋没していたらしい。成果なく藪漕ぎしても仕方がないので撤退。

 

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笠岩トンネル・小樽側坑口。標識がほとんどない以外は塩谷トンネルと瓜二つ。特に言うこともない昭和41年製・まもなく廃止のトンネル。

このトンネル間のスペース、新塩谷トンネル開通後はもう来られないかもしれない。外部に抜ける道もなく、海側は高さ10m以上の崖だ。

 

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笠岩トンネル・余市側坑口。反対側ともほとんど変わらない。コメントなし。

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左に7号トンネルがあるが、手前が開発局の資材置き場にされていて侵入不可。誰もいなければ入るかもしれないが、生憎とすぐ近くで、新塩谷トンネルの作業員が大勢働いている(この日は金曜日)。

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三世代のトンネルを同時に映すのは無理。

 

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トンネル前にももう一枚壁があるようで、貫通しているかは見通せない。この資材置き場がなくなるまでは確認できそうにない。

 

つづく