道道花畔札幌線(道道273号線) その1

1 十字街と斜め通り

札幌は典型的な条坊都市である。場所により軸の向きを変えながら広がる碁盤の目状の道路は、東西は江別から星置まで、南北は篠路から真駒内まで、およそ250平方kmにもおよぶ。これは、同じく日本の代表的条坊都市である京都市(岩倉~東山~中書島~嵐山)の約3倍の面積にあたる。

もっとも、これだけ広大な土地を、明治の開拓当初から市街化する予定であったわけではない。それどころか、戦前から札幌市であったのは現在の中央区や北区などのごく一部のみで、北25条以北や手稲区、西区、南区、清田区といった主要住宅街が札幌市に編入されたのは、昭和30年以降の事である。この裏付けともいえるのが、今回紹介する道道花畔札幌線である。

 

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この地図は、およそ十字の軸毎に色分けした札幌市北区・東区周辺である。一番左の青い部分ではJR函館本線を東西軸に、中央のオレンジの部分では大通公園創成川(国道5号)を、というように、色ごとに軸は異なるが、凡そ十字街が続くことが見て取れるだろう。黄色い道(道道)や赤い道(国道)も、その場での軸方向に認定されていることがわかる。

しかし、明らかに的外れというか”我が道を行く”道道があることに気が付くだろうか。それが、次の地図で赤線で示した道である。

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札幌駅のすぐ北東の赤丸から始まり、わずかに東進した後は殆ど軸を無視しながら北東方向に進んでいる。これが道道花畔札幌線、札幌の中でも指折りの古い道である。元村街道、斜め通りなど複数の愛称を持つが、この道が道道とされたのはその歴史の深さ故である。むしろ、この後見ていくとわかることだが、この道にそれ以外の重要性を付与することは難しい。

 

2 「石狩街道」

先に書いた通り、この道の歴史は古い。北海道開拓使明治4年に札幌に移転すると、当時メインの遠距離交通手段であった水運及び本州からの入り口になる函館へのアクセス道路として、札樽間の道路や札幌本道(函館ー森ー(海上)ー室蘭ー苫小牧ー千歳ー札幌)が明治6年までに開かれた。しかし、札幌にとって日本海側の港になる小樽へは、銭函ー朝里の断崖が険しく、容易に車道を成さなかった。そのため、日本海側から札幌への物資輸送は、市内に通じる河川を使った舟運に頼ることになった

ここで用いられた水路は、主に現在の創成川であった。創成川のうち北6条以南は、江戸末期に大友亀太郎という人物が、札幌川(現・豊平川)から水を引いた「大友堀」に由来する。大友は石狩川から伏籠川を遡り物資を輸送すべきと考えたため、大友堀は北6条で北東に折れ伏籠川に注いでいたが、これを明治3年に北に延伸し、北50条で琴似川に繋げ、この区間は寺尾堀と呼ばれた。これにより日本海から石狩川ー琴似川ー寺尾堀ー大友堀と経て札幌中心までが繋がった。

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ところが、この舟運には大きな弱点があった。現在では考えられないが、当時は石狩湾や石狩川水系は、冬季にしばしば凍結していたという。また、寺尾堀を掘削した折に残土で川沿いの道を造成したが、雨が降ると泥濘んで馬の腹が沈むほどであったという。

ここで登場するのが、元祖・石狩街道=現・道道花畔札幌線である。大友が大友堀を開鑿した際、伏籠川沿にも寺尾堀沿と同様に道を造成したらしい。明治3年以降、開拓者が元村、丘珠、花畔といった沿道に入植したのに伴って、この道を改修し利用する動きが出てきた。早山清太郎という人物が主に工事を請負い、明治6年に札幌ー篠路間を改修、翌年に篠路ー茨戸、花畔ー石狩原野(石狩港)、茨戸ー花畔を次々開削した。これにより、札幌から石狩までが陸路で繋がり、この道を「石狩街道」と称した。

この道はよく使われたようで、北海道内でも維持管理が特にされた路線になった。事実、明治25年末に馬車が通行できた道路は道内に10路線あったが、札幌室蘭間等の現在でも国道である路線に混じって、この「石狩街道」22.3kmがリストアップされている。

 

3 代替わり

明治19年、蛇行していた琴似川(北50条以北の現・創成川)を現在のように直線的に改修する工事がされ、北6条から茨戸までがほぼ直線で結ばれ、全体を創成川と称した。これに伴い川沿いの道も改修を受け、茨戸新道などと呼ばれた。明治20年函館新聞によると、今だメインとはならないものの、雪馬車が毎日20往復するほどの利用があったという。

さらに明治28年から、創成川の拡張とともに茨戸新道も全面改修された。大きく東側に迂回する「石狩街道」に比して、「茨戸新道」は茨戸までを最短距離で結ぶため、石狩方面への陸上交通はもっぱら「茨戸新道」が主役になった。いつしか、「石狩街道」は「元村街道」などと呼ばれるようになり、「茨戸新道」が新「石狩街道」となった。一般人の意識としては、茨戸新道の改修を契機として「石狩街道」の世代交代となったと思われる。

 

制度としても、「石狩街道」は代替わりを迎える。次の表は、明治16年1月17日の「札幌縣甲第二號布達」、道内の国道と県道(当時は函館・札幌・根室の三県時代)を定めたものである。

 

本縣管内道路等級左ノ通假定候條此旨布達候事  
     
国道三等    
從石狩國札幌郡札幌 至膽振国室蘭郡室蘭  
從膽振國勇払郡苫小牧 至十勝國十勝郡大津 大津は現在の豊頃町
     
縣道三等    
從石狩國札幌郡札幌 至後志國岩内郡岩内  
從同國岩内郡岩内 至後志國古宇郡古宇 古宇は現在の神恵内村・泊村
從同國余市郡余市 至同國積丹郡積丹  
從膽振國幌別郡鷲別 至同国虻田郡禮文華 禮文華は現在の豊浦町
從石狩國札幌郡札幌 至北見國枝幸郡枝幸  
從石狩國札幌郡札幌 至同國空知郡幌内 幌内は現在の三笠市
從同國石狩郡石狩 至同國樺戸郡志別  


ここで、「從石狩國札幌郡札幌 至北見國枝幸郡枝幸」(石狩国札幌郡札幌より北見国枝幸郡枝幸に至る路線)は、札幌より石狩、留萌、天塩、稚内を経由し枝幸に至る路線である。そして、このうち札幌から石狩の間では、旧「石狩街道」を指定していた。公式に「石狩街道」であったのである。

しかしこの12年後、明治28年3月23日の「北海道廳令第二十九號」では、以下のようにされた。

 

(前略)石狩國札幌ヨリ北見國枝幸二達スル路線中札幌石狩間左ノ通リ変更ス

(略)

札幌ヨリ枝幸二達スル假定縣道路線中札幌石狩間改正路線
 札幌ヨリ篠路村字茨戸太ヲ經テ石狩二至ル

 

ここで、旧「石狩街道」が経由していた札幌村が経由地にないことが、「石狩街道」の世代交代を表している。さらに、明治40年の「北海道廳告示第二百七十五號」では、新「石狩街道」が、仮定県道石狩札幌街道とされた。明治44年から翌年にかけて、札幌軌道がこの道沿いに馬車軌道を敷き、戦後は国道231号に指定されて(のちに北34条以南は国道5号に移管)、札幌から石狩湾・北方に向かう重要路線として現在まで続いている。

ここに旧「石狩街道」は、名実ともに石狩への連絡路「石狩街道」としての役割を終えた。明治初期の同じころに誕生した道は、国道5号や36号として現在でも道内の最重要路線である中、この道は「元村街道」として沿道集落の生活路となり、ひっそりと現在に至る。

 

ここまでから分かる通り、道道花畔札幌線の札幌の生命線としての役割は、大正時代を待たずして終わっていた。道道としての認定は、道路法7条1項6号「前各号に掲げるもののほか、地方開発のため特に必要な道路」に基づいているが、戦後の札幌市街地の急拡大に伴い、十字街を無視する変則道路として地図に残るのみになった。一部に重要な路線を構成する区間もあるが、全線を走る需要はないだろうし、その必要もない。全線を通じるのはその歴史的意義のみである。

 

4 道道花畔札幌線としてのデータ

道(道路法上の道路)にもランクがあり、雑に言えば国道→都道府県道→市道等の順である。道道では151号までが主要道道、201号からが一般道道とされ(152号から200号は欠番)、273号である花畔札幌線は一般道道である。

起点は石狩市花川北7条1丁目の道道44号交差点、終点は札幌市東区北7条東1丁目の国道5号交差点で、延長20.7kmである。道道認定時(1957年)の起点は札幌市北区茨戸であり、国道231号の経路変更に伴い起点が現在地に移転した(1984年)。早山清太郎が手掛けたうち、札幌ー篠路ー茨戸ー花畔の区間に相当する。花畔から先の区間は、道道44号線に指定されている。

起点の交差点には石狩市役所があり、約17km走った先の終点から100m程の位置にJR札幌駅がある。石狩札幌両市の中心を結ぶ路線であるのは、以上に見た成り立ちからも理解できよう。札幌市内では伏籠川左岸に、石狩市内では茨戸川(旧石狩川)左岸に沿っている。

古来からの道であるが、一部には現代に合わせて改良された区間もある。その新道区間も合わせ、道道花畔札幌線として指定されている総延長は20.7kmである。

最後に、全体の地図を確認しておく。

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赤線が石狩市内、オレンジ線が札幌市内、桃色線が新道である。沿道には丘珠空港やJR篠路駅がある。次回からは、この道を南側(終点側)から辿る。

 

(つづく)