国道5号余市札幌間 張碓峠旧道 その3
前回
初代張碓橋
軍事道路と旧道の交差点から、旧道を右カーブした先にあるのが、赤い欄干が特徴的な(初代)張碓橋だ。現国道にも張碓橋はあるが、この橋の隣の沢に架かっている。
まだうっすらとセンターラインが残っている。1933(昭和8)年6月竣工、1978(昭和54)年に現道に切り替えられるまで国道だったこの橋は、今はそのアーチにかかる荷重も殆どなく、おそらく小樽市道として使われている。
すでに茂る緑に覆われた橋は、現道から見ることはできない。日本土木学会選奨土木遺産なるものに選定されているらしいが、札樽を往来するほとんどの人は存在も知らないだろう。現道の喧騒も聞こえず、通る車もないこの辺りは非常に静かだ。
二代目・現張碓橋の旧道
現道に従ってもう一度高速をくぐると、左カーブとともにすぐに張碓橋がはじまる。そしてこの看板のところで左を向くと
怪しいダートが奥に続いている。ここに入ると
路面がある。現在の張碓橋ができるまでは、国道はこちら側だった。ここから札幌に向かってきつい右カーブを描き、現道と同じく高速をくぐっていた。
小樽方に進むと、薄れた二重のセンターラインが残る。いくらなんでも車線が狭いが、多少路肩の舗装がはがされているとはいっても、元から片側1車線である。実際札樽間の国道5号が全線で片側2車線以上になったのは、平成も13年経った2001年のことであった。2車線時代、この辺りは8kmも延々と渋滞していたらしい。
左は旧道から見た現橋。294mの長大橋である。後ろを向くと、札樽道が走っている。オービスらしきものと貨物自動車が見える。
この旧道は、現道の駐車場に繋がっているが、こちら側だけしっかり塞がれている。自転車でも通りにくいくらいの幅しか開いていないが、反対側もふさがなきゃ意味ないだろうに。
札幌から登りつめた地点にある駐車場。時代はわからないが低い擁壁がある。ここから張碓トンネル・朝里に向かっては下り坂に転じる。
張碓トンネル
現在、張碓には5本のトンネルが通っている。JR函館線の張碓トンネル、札樽道の張碓トンネル(上りと下りで計2本)、そして国道5号の張碓トンネルと新張碓トンネルである。ここでは国道のみ扱う。
左が張碓トンネル。小樽・函館方面車線の一方通行。右の坑口が新張碓トンネル。札幌方面の一方通行である。
竣工年は、「新張碓」が1985年で、「張碓」が2000年である。何かの間違いかと思うが、そうではない。
雑な図だがこんな感じ。現張碓トンネルの位置には、1933年にすでにトンネルができていた。しかし、これが狭くて歩道もないため、札樽4車線化に合わせて新しいトンネルを掘った。これが新張碓トンネルで1985年竣工。しかし、張碓トンネルが狭いことに変わりはないので、拡張工事をすることにした。それが完成したのが2000年ということだ。張碓トンネルの拡張中は、新張碓トンネルで片側一車線通行をしたらしい。
変哲のないトンネルを抜けると、朝里市街地まで2kmの快適な下り坂となる。
続く
国道5号余市札幌間 張碓峠旧道 その2
前回
前回書いた通り、軍事道路の初代張碓橋から先に通りぬけることはできないらしい。今回は余市のほうまで行きたいので、長距離の盲腸往復は回避したい。それに、銭函から初代張碓橋の区間は現在でも生活道路であり、ネット上で通ったという人も見かけなかった(張碓橋から先は多くの人が行っている)。なので、軍事道路に関してはこの区間だけを見てゆく。
といっても、誰もネットに上げないくらいだからほとんど何もないのだが。
A地点
A地点には橋が架かっている。左の親柱に「什橋」とあるが、右の親柱が盛大に破壊されていて、あるべき銘板がなくなっている。確かに狭い橋だが、右ハンドルの国でなぜ右の親柱にぶつかるのだろうか。
この橋は銭函川をまたいでいる。現在の国道の橋の名前は「銭函橋」で、ここの町内会は「沢町」。跨ぐ川は「銭函川」である。どこにも「什」の字は出てこないが、どこかから数えて十番目に当たるのだろうか。銘板がなく竣工年はわからないが、戦前までは遡らないと思う。軍事道路にもここに橋が架かっていたはずだが、同じ橋ではないだろう。橋の前後は急カーブと急勾配で、早くもこの道が廃れた原因を見せつけられた。
B地点
この区間では銭函川と礼文塚川を横切っており、礼文塚川に架かる橋が「礼文塚橋」である。現道の橋はたしか「春香橋」だったか。このあたりは小樽市春香町である。
全体的に生活道路であり、住宅街では二車線確保されているが、先ほどの「什橋」と、B地点に架かる「礼文塚橋」の前後は、急勾配・急カーブ・狭区間の三重苦だ。橋を短くするためか、毎度のように沢に向かってかなり高度を下げ、一気に登る。
この坂を上り切ると、まあまあ歴史を感じる石柱がぽつんと残されていた。
「逓信省」「地下線」と彫ってある。
「逓信省」という名は、1885(明治18)年から1943(昭和18)年までと、1946年から3年間使われた。現在のNTTの前身のような国の組織だった。一時は鉄道も管轄だったが、ここでいう「地下線」は地下鉄ではなく、電話線か電気線の類だろう。字が驚くほどくっきり残っており、とても雨ざらしにされているようには見えないが、戦後の存続期間の短さを考えるとおそらく戦前設置の物だろう。80年以上前の物であろうが、民家の玄関横に何の飾り気もなく立っている。
C地点
C地点の少し札幌寄り、現国道と分岐した軍事道路からは海がよく見える。これじゃあ露助からも丸見えじゃないか。
地にはいつくばって峠を目指す軍事道路。上空では馬鹿でかい橋が張碓の谷を一跨ぎに通過している。札樽道の張碓大橋は上路式トラス橋(たぶん)。晴天だと赤がよく映えると思う。
そして、上の写真の真ん中にある丸い木の袂に、二つ目の石柱を見つけた。
横書きで「同軸」、縦書きで「曲点2.0」、左面には円に横棒が刺さったような図案が彫られている(右図)。このマーク、どこかで見た気がしないでもないが思い出せない。そして、いくら調べても「同軸」や「曲点2.0」ではヒットせず、この石柱の正体は謎だ。水準点とかがあった記録はない。字体が角ばっており、戦前のものという感じはしないが、それくらいしかわからない。
(2020.12.10追記)
電電公社のマーク。よく札幌市内のマンホールでも見るのに、全く注意が向いていなかった。
(追記終)
高速をくぐってゆるやかに登っていくと、現国道をくぐるボックスカルバートがある。現道は何度も通っているが、今の今までこんなものがあるとは知らなかった。
しかもこれがなかなか変なやつで、片側だけ手すりがついている。歩道があるならともかく、車道トンネルやボックスカルバートで手すりの存在する意味が分からない。冬に歩行者が滑らないように?
これを抜けた先で、「旧」国道と合流(交差)する。
ここからは、札樽四代の道が一望できる(さすがに海沿いの初代道路は見えない)。
この交差点から先、軍事道路はすぐに未舗装となり、本来の張碓峠に向かう。
今回軍事道路をたどるのはここまでで、ここからは昭和9年にできた国道を伝って朝里・小樽に抜ける。
続く
国道5号余市札幌間 張碓峠旧道 その1
4本の道路と1本の鉄道
一般国道5号線は、函館から札幌までを結んでいる。その中でも、函館から森の区間と、この張碓峠を挟む小樽・札幌間の歴史は古い。
張碓一帯は、山がそのまま海に落ちこむ急崖地帯で、明治初期に札樽間を結んだ道路や幌内鉄道(現:函館本線)の一番の難所であった。
この地形図は1916(大正5)年測図であるが、海岸線沿いに、左上小樽方から道路が何度も鉄道と交差し、右下札幌方に続いているのが分かる。これは、小樽市街地から銭函で石狩平野に達するまで、実に23回に及んでいる。
この区間は、道路ができた数年後(明治12年)にその敷地に鉄道が敷かれ、さらに輸送量の増大によって複線化されたため、道は非常に狭く、轢死する者も絶えなかったという。
日露戦争期、海沿いの交通が敵艦隊に砲撃され、札樽間の連絡が取れなくなることを恐れた軍部は、小樽から山を大きく迂回し銭函で合流する「軍事道路」を造った(1905年・明治38年)。上の地形図で、左端真ん中あたりから右下に向かって、グネグネとした道が見えるのがそれである。しかし、この道は急勾配、急カーブの連続で馬車でも通る者も少なく、1920(大正9)年に当時の国道4号(東京から札幌)に編入されるも、廃道然だったという。
海沿い、山中どちらにもまともな道路がなかった札樽の交通は、1931(昭和6)年、不況を受けた時局匡救事業によって改修されることになった。その結果、現在の国道5号とほぼ同じ場所を通る道路(当時はまだ国道4号)が1934(昭和9)年に完成した。現在では、1971(昭和46)年開通の札樽道も、ここを通過している。
上の地図のうち、緑の道は朝里周辺を除いてほとんど残っていない。JRの敷地になっている。また、軍事道路(紫)は、初代張碓橋から西は、いくらか残っているものの、採石場や後志道の工事によって、札幌側と小樽方面の往来はできないようだ。
今回は、銭函駅付近から初代張碓橋までは軍事道路を、その先は昭和9年道を使って小樽に抜ける。
続く
手稲山 旧道 その4
前回
4.違法
明るく見えていた場所まで出てきた。右の写真は出てきたところを振り返ったもの。ここから先は轍が明確にあり、今も使われていることが分かる。
さて、前回述べた別の問題とは、
左30mほどにはゴルフ場のグリーンがあり、しかもタイミング悪く4人パーティーがちょうどグリーンに移動してきていた(轍はグリーンに続いており、4人からは丸見え)
・・・こともあるのだが、ここから先の旧道は、ゴルフ場の敷地内の可能性が非常に高い。つまり、不法侵入。
まあここまで「ゴルフ場につき立入禁止」とはどこにもなかった。知らなかったからしょうがないので進行する()。
写真からはわかりにくいが、結構きつい斜度だ。現道と別れた橋の袂から、この先の合流地点まで80mの高度差があるが、この区間、現道が1400mもかけて登るのに対し、この旧道は半分の700mほどで詰める。平均斜度は現道5.7%に対し、旧道11.4%である。しかも未舗装の砂利道で、チャリに乗って進むには普通にきつい。
これでゴルフ場から丸見えだったらさすがに引き返しただろう。実際には森で視界はさえぎられており、ゴルフ場の管理者と出会うこともなかった。
旧道が残り100mほどとなったところで、右側から現道を走る車の音が大きくなってくる。旧道はこの写真のところで一旦現道を左に避けるが、もともとは直進していた。現道建設に当たってわずかに線形が変更されたようだ。
右上に現道が見え、旧道もほぼ終わり。同時に、左の森も終わり、ゴルフ場から丸見えになる。ここまで来て引き返すのはさすがに面倒なので、きつい坂だが全力で漕いで脱出した。
脱出場所。振り返ったらこちら側には、
「私有地につき関係者以外立入禁止」
の看板がちゃんとあった。向こうにあったら言い訳は効かなかった。
5.麓側
手稲橋から下の区間は、今も普通に市道として使われている。現道より斜度はきついが、2車線のありきたりな坂である。
基本的に左右は森だが、手稲橋が見えるところだけ開けている。ここは、現在の橋の橋脚工事の際、その工事車両を入れた跡である。下の写真は最初にも示したが、橋脚の影に向かって旧道から道のようなものが伸びているのが見て取れる。
下りきる直前、何かの工事をしていた。現道側では北海道新幹線のトンネル工事をしていたので、こっちもその関連だろうか。
ゴルフ場より上の区間にも、いくつか旧道から切り替えられた区間があるが、余りにも藪と森と化していて、雨降りのこの日に入る気にはならなかった。
一例として、下の写真の奥の、どこに道の跡があるというのか。
しかも、多くの区間はスキー場コースになっているようで、じゃあ冬にでも滑れば良しということにする。
(終わり)
手稲山 旧道 その3
前回
3. 撃たれるかも
右上のでかい看板は対岸からも一応見えていた。多分赤いのも青いのもどちらも転職情報サイト「DODA」。古そうだが、旧橋を向いてることから1970年代からずっとあるのだろうか。
奥にも小さい白看板が見える。拡大すると
「鹿駆除実施中
許可なく立ち入りを禁ず
加森観光株式会社テイネ事務部」
運が悪いことに今日は鹿の毛色みたいな防寒着を着ている。まあ撃たれたら残念ってことで。
ちなみに加森観光とは、テイネGCのほかルスツリゾートや伊豆周辺の観光施設を所有するグループ。札幌市内の北4西4あたりにもビルがあるが、相当古いらしい。読売新聞と三井パークに挟まれて肩身が狭そう。
山に戻って藪に突撃する。
第一印象とは違い、意外にもしっかりとした通路があった。これはマジで鹿駆除やってんだろうな。さすがに自転車同伴なので人間だと見抜いてほしい。
しかし、右の写真のように、刈り払われた部分の一部(写真では右側)は、水の流れで削られている。洗堀というやつで、山中の未舗装道路がダメになる原因の一つだ。まあいまさらここに車が通ることはないだろうから、関係ないと言えばそうだろうが。
ちなみに、もう一回地図を見ればわかるが、現道は勾配緩和のためだいぶ迂回しているので、これを歩いて戻ってチャリ回収するのは無駄な労力だ。なので、廃道区間ではあるがチャリごと突っ込んでる。
航空写真からわかってはいたが、5,60mも行かないうちに刈り払いが広くなって、前方に明るい区間が見え出した。あそこまで行けば撃たれる心配はないだろうが、別の問題にぶち当たる。
続く
手稲山 旧道 その2
前回
2. 今はなき橋
新橋(黄色)に相当する部分の旧橋部分から。右側(麓側)から来ている。
現道と旧橋の分岐点。一応立ち入り禁止の看板はある(中央の赤丸内)けど法的法則力はない。しかもそんなにやる気のなさそうな車止めしかなく、現在でも車が入っているような跡さえ見える。
車が入ってるのはこれのためだろう。具体的になにをやってるかはわからないが、地質調査観測孔と書いてある。
奥に進むが、定期的に車の入るであろう道路は荒れも少ない。
ただ、現在の舗装は明らかに1車線分しかない。左側の草地も元は舗装車道だったのだろうが、はがされたようだ。
旧橋の手前の広場。さっきと同じ観測設備が左右に一つずつある。旧橋の手前には柵が。
橋はすでに撤去済み。真ん中対岸に黄色い看板が見えるが、向こう側の現道との合流点のカーブ警告看板だ。
最初に出した航空写真(2008年)では、橋はまだ架かっているが、最新のGoogleEarth(2018年)ではすでに見られない。Wikiによると2008年には撤去されていたらしい。
反対側にも来た。
こちらにはちゃんと法的効力のある通行止め看板。まあ30mも行かずに柵で終わりなのだが。
一応入るが特に何が見えるわけでもない。橋台も見つからなかった。
左右ともしっかりガードレールが残っているが、左側は草に埋もれてしまっている。
現道・旧道・旧橋合流地点の眺め。赤の旧道が猛烈な斜度で現道に合流している。
で、その旧道は今いる交差点を直進していたわけで、その行先は、
赤矢印の先、この藪の中である。
続く
手稲山旧道 その1
1.地図と航空写真
札幌市道路なんとかサービスから
手稲山頂方面に向かう道は、札樽道から札幌テイネGCまでの間で現在と大きく経路の異なる旧道があり、GC以降も細々した違いがある。
今回のメインは地図のオレンジのエリア。
次に航空写真。上から1961年、1977年、2008年の三枚。
最初、右上から左下に一本しかなかった道しかなかったが、次ではグネグネとした新道(現道)に置き換えられている。さらに、現在は新旧道交差点辺りに新しい橋が架けられている。2007年に現在の橋になったらしい。
もともとこの道路は、手稲山頂にテレビ塔を建てるための工事道路だったはずだが、たぶん札幌五輪で手稲山も会場になったことから、曲線や勾配緩和の目的で現道を建設したのだろう。ちなみに現在も、札幌テイネGCからオリンピアまでの道路の東側に、ボブスレーの廃墟と化したコースが眠っていたりする。現道の真横にボブスレーのアップヒルなる鉄骨があり、比較的容易に見つけられる。
https://www.city.sapporo.jp/teine/kotyo/index.html
http://asobihorokerusan.whitesnow.jp/s.olympic.htm
旧道と現道の関係を下にまとめる。赤が旧道、青が新道、黄色が新橋。
続く