国道5号余市札幌間 張碓峠旧道 その1

4本の道路と1本の鉄道

一般国道5号線は、函館から札幌までを結んでいる。その中でも、函館から森の区間と、この張碓峠を挟む小樽・札幌間の歴史は古い。

張碓一帯は、山がそのまま海に落ちこむ急崖地帯で、明治初期に札樽間を結んだ道路や幌内鉄道(現:函館本線)の一番の難所であった。

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この地形図は1916(大正5)年測図であるが、海岸線沿いに、左上小樽方から道路が何度も鉄道と交差し、右下札幌方に続いているのが分かる。これは、小樽市街地から銭函石狩平野に達するまで、実に23回に及んでいる。

この区間は、道路ができた数年後(明治12年)にその敷地に鉄道が敷かれ、さらに輸送量の増大によって複線化されたため、道は非常に狭く、轢死する者も絶えなかったという。

日露戦争期、海沿いの交通が敵艦隊に砲撃され、札樽間の連絡が取れなくなることを恐れた軍部は、小樽から山を大きく迂回し銭函で合流する「軍事道路」を造った(1905年・明治38年)。上の地形図で、左端真ん中あたりから右下に向かって、グネグネとした道が見えるのがそれである。しかし、この道は急勾配、急カーブの連続で馬車でも通る者も少なく、1920(大正9)年に当時の国道4号(東京から札幌)に編入されるも、廃道然だったという。

海沿い、山中どちらにもまともな道路がなかった札樽の交通は、1931(昭和6)年、不況を受けた時局匡救事業によって改修されることになった。その結果、現在の国道5号とほぼ同じ場所を通る道路(当時はまだ国道4号)が1934(昭和9)年に完成した。現在では、1971(昭和46)年開通の札樽道も、ここを通過している。

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緑:初代道路 紫:軍事道路 赤:昭和9年道路

上の地図のうち、緑の道は朝里周辺を除いてほとんど残っていない。JRの敷地になっている。また、軍事道路(紫)は、初代張碓橋から西は、いくらか残っているものの、採石場や後志道の工事によって、札幌側と小樽方面の往来はできないようだ。

今回は、銭函駅付近から初代張碓橋までは軍事道路を、その先は昭和9年道を使って小樽に抜ける。

 

続く 

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